信州*その日暮らし お金をかけない日々の記録

信州移住者による、ロハスと言えば聞こえのいい金欠生活録

【5月・廃駅探訪】東塩尻駅跡と、塩尻宿をめぐる

近年にわかに注目されるようになってきた鉄道遺構、東塩尻駅
雑草生い茂る中、水面に浮かぶ島のような小さなホームがぽつんと取り残され、現存する駅名標のフレームだけがそこにたたずむその姿が、何とも言えない人気を呼んでいるようだ。


新緑の中たたずむ東塩尻駅ホーム


5月は鉄道遺構巡礼に適しているらしい

ものの本によると、春から初夏にかけては廃線巡りに適した季節であるという。
暑くもなく、寒くもなく、散策に適した気候。
そして何より生い茂る草木に行く手を遮られることなく、自然に埋もれた廃墟をたどるにはもってこいの季節だということだ。


そこで今回は、『東塩尻駅』、その跡地を目指してみることに思い立った。何の前触れもなく急に。
塩尻駅というのは通称で、正式には『東塩尻信号場』というらしい。
かつて国鉄中央本線塩尻駅小野駅の間にあった非正規の駅だ。
非正規といっても、ここでの乗り降りはちゃんと認められており、地図や時刻表にもしっかり載っていた。
1978年の時刻表を見ると、上下合わせて10本ほどが停車していたようだ。
books.google.co.jp

塩尻駅の誕生と廃止の経緯をざっと説明する


この駅の立地、もともとは列車のすれ違いや特急などの追い越し待ちのために設けられた待避場(信号場という)なのだが、太平洋と日本海分水嶺『善知鳥うとう峠』手前の急勾配の途上にあるため、ここでふつうに停車してしまうと、特に蒸気機関車ではパワー不足で登り方向への発進が出来なくなってしまう。
そのため勾配の少ない分岐線を設けてそこに待避して停まるようにした場所だ。
こういう構造の停車場は「スイッチバック駅」と呼ばれるが、箱根登山鉄道などにみられるような短い距離で標高を稼ぐためにジグザグに登る「スイッチバック」とは異なり、停車の必要があるときだけ利用される。
坂の途中で停まりさえしなければ勢いで登れるから、通過するだけならスイッチバックの分岐線に入る必要はないのだ。

さて、どうせ停まるのなら乗客や荷物の乗り降りもしたくなるのは、だれしも考えつくところだろう。
この場所は、中央線と篠ノ井線の合流点に作られた、町はずれにある塩尻駅よりも、かつて中山道の宿場町であった塩尻宿に比較的近いため、列車本数の増加により信号場が作られてから数年後、1948年(昭和23年)頃から「駅」として利用されるようになった。


左:昭和50年前後 / 右:平成15年前後
(地図は国土地理院WEBより)


やがて時はくだり、地図を見てもわかるほどに極端に大きく南に迂回していた通称『大八回り*1』のルートを、国鉄末期の1983年(昭和58年)に長大トンネルを通るルートに付け替えたことに伴い、より集落に近い場所に『みどり湖駅』が作られた。
旧ルートは、距離が長くいくつか駅もあったためか廃止にはならず存続したが、東塩尻駅はこのとき廃止された。
列車の大多数はバイパスルートを通るようになり、待避場の必要がなくなったためだ。
列車の性能は開業当時より随分よくなっていたため、スイッチバックをしなくても本線上に駅をつくって停発進することは可能だっただろうが、もとより集落に比べて一段高いところにあったため、より集落に近い新駅があれば、旧駅は廃止にしてもまったく問題なかったのだろう。

結果使われなくなった駅は、その後別の目的に利用されることもなく、わざわざ費用をかけて撤去されることもなく、現代に至っている。
枕木や鉄製の線路が撤去もされずしっかりと残ったのは、やがて訪れたバブル期において、リユース、リサイクルを行う必要性を誰も感じなかったためではないかと思う。


さて、話がだいぶ横道にそれて長くなってしまった。遺構はこのくらいの時間は屁とも思わずただ佇んでいてくれるが、ここを読んでいる人が長さにあきれて去ってしまわないかだけが心配だ。
先にも触れた、フレームだけが残った駅名標が、かなりいい味を出していいる。
フレームに背景を写しこめば、まるで一枚の絵画のようになる。





塩尻駅跡までのコース解説

みどり湖駅から上手双体道祖神まで

塩尻駅跡までの道のりを地図を使用してくわしく説明したいと思う。googlemap等では細かい道が載っておらず、目的地周辺からの詳しい入り口がわからないため、しょうがなく現役の線路を横断して進入する人が後を絶たないためだ。実際自分が行った時も、バイク乗りの数人が線路を横断していた。
本数が少なくなったとはいえ、大小のトンネルに挟まれた現役の線路を横断するのは、運行の邪魔である以上に何より危険だ。やめよう。


(この地図も国土地理院WEBより)


スタートは、電車で訪れるのであれば、みどり湖駅から歩くのがいいだろう。そこからなら、ちょっとした散歩に最適な距離と道のりだ。ただし最後には獣道になるため、それなりの服装は必要だ。
車で訪れる場合は、近くには基本的に駐車スペースがないため、かなり離れた場所に置くことになる。小型車なら現場近くに置くスペースが皆無というわけではないが、農作業等で停めたり通行する車もあるだろうから、遠慮した方がいいだろう。
また、みどり湖駅の送迎用の駐車スペースは、一応30分までとなっているので、そこも遠慮したほうがいいだろう。
もし車に乗せられる自転車を持っていれば、塩尻IC近くの道の駅『小坂田公園』の広い駐車場に車を停めて、そこから塩尻宿とセットでサイクリングがてら訪れるのが良いのではないだろうか。
ちなみに自分は自転車で訪れた。


さて、ここでの案内は無人駅の『みどり湖駅』をスタートとする。塩嶺トンネル手前の掘削部にホームがあり、駅舎というモノは無くホームから階段を上るといきなり駅の外に出る。
そのため上り線と下り線の出入口は別々になっているのだが、どちらのホームから出ても、線路をまたぐ跨線橋になっている同じ一般道に出る。
こういうのもある種の駅自由通路といっていいのだろうか。


跨線橋からみどり湖駅を見下ろす。見づらいがすぐそこに塩嶺トンネル入り口がある

ここから南方向へ向かう。山へ向かう方だ。道はすぐに下り坂となる。
さきほどの跨線橋を含むこの道は、塩尻から伊那、飯田を通って三河へ向かう旧街道『三州街道』であるため、古い家並みが続く。
坂を下るとやがて右手に「南無阿弥陀仏」と書かれた石碑がずらっと並ぶ『剣ノ宮石仏群』が現れる。次の分岐を右に曲がる。


案内板には「石仏群」とあるが、果たしてこれは仏さんなのだろうか。


すぐに眼前には鄙びた山村風景が広がる。山あり川あり水田あり果樹園あり、何にもないが何でもあるスゴく良い感じの風景だ。
小さなY字路は左手の道をたどる。ちなみに真正面に見える谷に目的地の東塩尻駅がある。
やがて片側1車線のやや大きめの道に当たったら、右へ折れる。
先ほどの地図の北端が、ちょうどこのあたりだ。以降、ピンクの破線で示した道順に進む。
すぐに『上手わで双体道祖神』という名の道祖神庚申塔がならぶ場所(地図地点)があり、ここが駅入口の目印だ。左に折れて路地に入ろう。


道祖神が駅入り口の目印。この写真でいうと正面奥へ向かう


レンガ造りのトンネルを抜け東塩尻駅跡へ

緩やかな登りで住宅地を抜け、右手に小さな祠を過ぎると、かつて東塩尻駅への昇り口だった分岐(地図地点)にたどり着く。
単純なY字路に見えるが、じつは右の道のさらに右に『寺内踏切』跡に向かう分岐がある三叉路なのだが、そこは完全に廃道になっているため初見で寺内踏切への入り口を見つけるのは困難だ。
寺内踏切から降りてくる分には辛うじて踏み跡を追えるので、そこはあとで回ることにしよう。
どちらにしても、目指す東塩尻駅のホーム等の遺構へ向かうなら、登らずに左の道へ向かう。右に登って行くと線路に当たってしまうため、線路の反対側にあるホームへはたどり着けない。


この先も舗装路が続くが、やがて車が進入できないほど細くなってゆき、レンガ積みの結構雰囲気のあるトンネルに差し掛かる。線路をくぐるためのトンネルで、水路と歩道が同居している。(地図地点)


簡単な車止めが置いてあるが、そもそもここに車で入っていける気は全くしない


灯りもないトンネルをおっかなびっくりくぐる。
実はこの先で、どうやってホーム跡に行けばいいかかなり迷った。
トンネルを出て左手、見上げる樹々の間から例の駅名板が見えるので、目的地が目の前なことは確かだが、ここは観光地でも何でもないので道順を示す標のようなものは無い。しょうがないのでこの時は堀のような川を幅跳びで越え、斜面をよじ登って駅跡に達してから、上から登り口を探すという本末転倒のことを行った。
目的地にはすでに着いているのだから、実際はそんなことをする必要はなかったのだけれども。


樹の間、矢印で示したところに白いフレームが見えているんだけど、わかるかな?


さて、正解(?)の入り口はかなり意外なところにあった。
トンネルを出て左手にあるホーム跡に向かって、なんと真後ろの方向だ(地図地点)。トンネルを出て右手から回り込むようにしてトンネル脇の斜面をジグザグに登る踏み跡がわずかについている。
なお、この斜面には、鋭いトゲを持つニセアカシアの樹がいっぱい生えているので、不用意に樹の幹を掴んでよじ登らないように注意したい。

スイッチバック駅周辺を散策する

到着。
かなりしっかりと、いろんなものがそのままの形で残っている。
鉄道遺構について大して詳しくないので、下手な説明をして墓穴を掘らないように、とりあえず写真だけ並べておくことにする。ホームの写真は冒頭にいくつか載せたので割愛。




誰かが定期的に手を入れてくれているらしく、樹木が伐採してあったり、駅名板が針金で補強してあったりする。
ポイント(分岐)切り替えを触ってみたり眺めたり(もちろん動かないし、無理すると壊れるかもしれないので触れる程度に)、車両1両分の長さしかないホームを登ったり降りたり、写真を撮ったりして楽しむ。
ホームよりもかなり奥まで枕木と線路は続いている。途中斜面からの土砂で線路が埋もれたりしているが、半分河原みたいになってしまっている部分で、「15」(?)の標識が現れたところでおそらく終点となる。


なお、先ほど見てきたようにホームは1両分しかないため、ホームにかからない車両からは飛び降りたりして乗り降りした、なんて記述をほかのWEBサイトで見かけるが、それはお調子者や慌て者が時々いたというだけで、それが普通というわけではなかったはずだ。
少なくとも列車に乗り込むには、最も道の入り口から近い場所にあるホームから乗り込むのが楽で、わざわざホームを通り過ぎた先からよじ登る必要はどこにもないのだ。
それに、現役当時の東塩尻駅に行ったことはないため想像でしかないが、おそらく駅に停まっても列車はドアの開放はしなかったのではないかと思う。
寒冷地の人間ならわかると思うが、冬場は駅に着いても列車のドアは自動で開かない。プシューと音がしてロックが外れるだけで、開閉は人が手でおこなうのだ。開けっ放しにすると外気が入って寒いから。今は手で開け閉めではなく開閉ボタンがついているものが多いけど、当時はそれと同じ機構を使って、乗り降りしたい人が手動で扉を開けてたんじゃないかな。


反対側にも行ってみる

さて、ある程度堪能したところで、先ほどパスした現役線路を挟んで反対側も散策してみよう。横着して現役線路を横断せず、先ほどの道を引き返そう。どこから登ってきたか分らないと思うが、ポイント切り替え機と、車止めの間くらいから、なんとなく降りれそうなところを探して降りる。誤ってトンネルの口の真上に出てしまいそこから落ちないようにだけ注意したい。

先ほどのY字路(地図地点)まで引き返し、今度は地図の水色の破線に沿って進もう。舗装路をひいこら汗かき上がると、やがて視界が開けて線路に出る(地図地点)。



線路の先に善知鳥うとうトンネルが見える。
中央奥が先ほどいた東塩尻駅跡で、駅が現役時はここの線路を跨いで渡っていたようだが、
ひつこく何度も言うようだが、今現在ここを渡らないこと。
あまり問題になると立ち入り禁止措置を取られかねない。


塩尻駅の枝線に入った東京方面行き列車は、折り返し反対側の今いる平坦な場所に設けられた別の枝線に入って、あらためて坂を上り始めたものと思う。
こちらの側は線路などは残っていないが、路盤がそのまま車の通れそうな道になっている。


左:1960年代の航空写真。スイッチバックの線路が良く見て取れる。  右:現在の同地点の地図
(航空写真・地図ともに土地理院WEBより)




麓の方から列車の走行音が聞こえる(地図地点)。
写真中央に白く変電所が見えるので、おそらくあの辺りがみどり湖駅なのだろう。


やがて「18」の標識が現れ、左手眼下に歩行者用(林業用の生活道路だろうか?)の寺内踏切の痕跡が見える。
踏切へは「18」の標識の近くに、線路とは反対方向の右側に降りる急坂の踏み跡があり、そちらから踏切へ続く小道に降りられる。
小道が枝線の下をくぐるガードの先が寺内踏切跡だ。ここの踏切跡も、横断するのは控えよう。


帰りはガード下を戻り、廃道になりかけの小道をそのまま下ると、例のY字路に突き当たる。
「18」の標識の先に行くのを忘れていたが、坂を上り返す気力が無いのであきらめた。

つづく。(そのうち書く)

*1:【大八回り】伊那出身の政治家・伊藤大八が、伊那の玄関口である辰野に幹線の駅を設けるために、中央本線のルートを大きく迂回させたという逸話からこの異名がついている。辰野経由決定の立役者であったことは確かだろうが、元々当時の技術では、塩尻峠を越える路線を敷くのは現実的ではなかったため、大八の鶴の一声が無くてもこのルートに決定したことは想像に難くない。